動物の愛護掲示板過去発言No.6000-201106-9
Re:里親という表現(言葉)について |
投稿日 2009年1月27日(火)12時22分 投稿者 プロキオン
私が、この言葉の問題に気が付いたのは、もう10年近くにもなりますでしょうか。県の方から「里親の会」からの申し入れあって、県としては「子犬・子猫の譲渡会」という表現に変えることにしたと言われたときからです。 「自分達は犬や猫と同じなのか」と子供たちが思ったら可哀想ではないかという申し入れだったそうです。どの程度の子供たちがそのように受け取るのかは、ともかくとして、傷つく者がいるのなら敢えてその表現に固執するのもどうだろうかと私は思いました。 その考えを、獣医師広報板で述べたところ、賛成よりも反発の意見の方が多かったように思います。印象に残っているのが「そのような受け取り方をしないように周囲の人間が気を使うべきだ」というような意見でした。この意見はこの意見として至極もっともところがあります。 けれども、子供たちの周囲の人間により一層の努力をもとめる反面、原因をつくっている御本人の努力と言うのは、どこにあるのかなという点が気にかかりました。譲渡会は、量販店やホームセンターの店頭で開催されていることが多く、そのようなお店の方にまで申し入れが届いたとしたら、譲渡活動そのものについては、かえってマイナスとなりかねません。ですから、子犬・子猫の行く先を考えるのであれば、「里子・里親捜し」の言葉の表現にこだわる必要はない、というのが当時の私の言い分でした。 その後、この申し出は減る気配もなく、続いています。「里親捜しています」の表現がむしろネットを中心に増えているからでしょう。県にも定期的に届いているようですし、新聞でもそのことが取り上げられたりしています。 里親の会からの申し入れが、押し付けがましいという声も私は聞きましたが、それがこちら側の免罪符になるということでもありません。両者が対立するという事態が、そもそもおかしいのです。動物にやさしくあることが、人間への配慮に欠けるということであったとしたら、それはやはり奇異なことと映ります。 思いやりや配慮というのは、本来当事者の双方において求められることなのですが、先に譲る事ができた方が、より大人であって余裕があるように見えませんか。私は、そういうことだと思っています。 ただ、申し添える必要があるかどうかなのですが、当時の意見の中に忘れる事ができないものがありました。 それは、里子に関わったことがあるという立場の方からの意見でした。 「里子は決して可哀想な子達だけではなく、里子であるという事実を利用して積極的に周囲の人間に近づいて その人たちを利用しようとする者もいます。それは、今までの境遇から周囲の人間がどこまで自分を受け入れてくれるのかを試したり、甘えたりという行為とはあきらかに異なる意図的なものもあるのです。可哀想という言葉だけでは、ひと括りにできないのです。」というものでした。 子供が傷つくという考え方というのも、「腫れ物扱いは嫌」という者や、里子であることを利用するという者もいる、やはりそのくらい様々な子供がいるということは覚えておいた方がよいのかもしれません。通り一遍のレッテルを貼ってしまうことの方がよくないのかなとそれ以後は思っています。
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