ペットロス(メモリアル ルーム)掲示板過去発言No.0100-200212-18
大切な相棒でした。 |
投稿日 2002年11月15日(金)09時11分 投稿者 simauma
これは、約20年間私の相棒を努めてくれた雑種犬「ジョン」の思い出です。 彼は2000年秋、私の元から旅立って行きました。 彼がこの世に存在し、一生懸命生きていたコトを残しておきたくて書き込みさせて頂きます。 彼は私が中学2年の時、ウチの父に貰われて来ました。生後2日目で、まだ目も開いておらず、ティッシュの箱に入るほ ど小さかった。シェルティと何かのMIXだったらしく、茶色と白、それに黒い所もありました。 私の両親は、私が幼稚園に通っている頃、離婚していました。その後、母一人が頑張って私たちを育ててくれました。 小学校2年の時、新しい父親になる人が現れました。子供心に、どんな人か心配でしたが子供や母には優しい人でした。 しかし新しい父は仕事も頑張る替わりにギャンブルや酒も好きで、しょっちゅう借金を作り、共働きだった母の給料でその 埋め合わせをしていたようです。そんな私の家は今時珍しいくらい貧しい部類にあったと思います。 彼が貰われて来たときは半場の様な所に住んでいました。恥ずかしくて友達も呼べないような。 それを気遣ってか、子犬を貰って来たのです。その日から、昼間は病気がちな母に世話を頼んで学校に行き、夜中に起 きて哺乳瓶でミルクをやり、ウンチが出なくて苦しそうな時は指でお尻を刺激して出してやり、と言う日々が続きました。 彼は元気に育ち、その容姿はまるでシェルティのようでしたが、シッポはくるっと上にカールしていて、顔はどことなく日本 の犬っぽかったです。(笑) 中学を卒業し、当時は母の病もあって定時制の高校に進みました。このころ父は自分で会社を興し、数人の従業員を使 い一軒家を借りて住んでいました。犬もジョン以外にプードルとヨーキーが居ました。庭も広く、ジョンも自由に駆け回って いました。しかしこのころから、父のやり方(酒やギャンブル)で良く私と喧嘩になり、高校(4年制)を卒業後19歳で一人暮 らしを始めました。安いアパートで2件長屋のような所でした。それから1年少々、ジョンとも両親とも会っていませんでした が、ふと何か虫の知らせのような気がして実家に行ってみたところ、あろう事か夜逃げのような状態で両親は居ませんで した。家財道具が庭に山積みに放置され、とても情けない思いをしながらその山の中から卒業証書やらの自分の必要な 荷物を持ち帰りました。この時とっさに飼っていた犬たちのことが頭をよぎりました。犬たちも全てが放置されていたようで す。プードルの「クロ」やヨーキーの「ネネ」は既に居なくなっていました。空の小屋だけがポツンと置かれていました。 彼も見あたりません。保健所に連れて行かれたんだろうか・・・ホントに全身の力が抜けました。そのとき、陰の草むらか ら彼が、とても嬉しそうに、甘えるような声を出しながら走って出てきました。彼はじっと待っていた様でした。きっと荷物の 番をしてくれてたんだね。 ごめんな。 寒かったよな。 随分痩せてしまったね。 ごめんな。 荷物と一緒に彼もアパートに連れて帰りました。幸い大家さんが親切な方で「2件長屋だし吠えたり噛んだりしなければい いよ」と言ってくださいました。 こうして、また彼と暮らし始めました。両親が行方不明という不安の中、彼は私の一人暮らしに安らぎを与えてくれまし た。彼はいつも私のベットの上、しかも決まって右側の足元で眠っていました。私が中学生の頃から決まって。別に教えた ワケでもないのに。彼は昼間、一匹でアパートの部屋で留守番をしていました。しかし一度も部屋で粗相をしたことがあり ません。ホントに一度も。 仕事から帰ると散歩に行きましたが、決まって大量のおしっこをした後、ウンチをして、ひとしきり遊んで帰っていました。 その後私が23歳、妻が22歳で結婚。二人と一匹の生活が始まりました。このころ今もウチにいる三毛猫の「さちこ」 を拾ってきました。生後2ヶ月くらいだったでしょうか。まだまだ子猫の状態で、ジョンにじゃれて遊んでいたことを覚えてい ます。 ある日仕事から帰ると玄関で彼が倒れていました。何があったのか、さっぱり見当もつかず、大慌てで病院に連れて行 きました。原因はフィラリア。レントゲンを見せて貰うと、心臓のあたりが真っ白に写っていて「虫が心臓に集まっている。も う余り長くはないかも知れないね」と先生に言われました。その後はあまり激しい運動はさせないようにして散歩に連れて 行き。公園ではゆっくりと休んでから帰って来るようにしていました。食事も病院指定の物に変え、投薬も続きましたが、 彼は割と元気に見えました。 それから1年後、長女も生まれ、妻の両親と同居する話が持ち上がりました。共同で一戸建てを購入し、私は当然、彼も 一緒に暮らすのだと考えていました。。しかし家が完成し、引越の間際になって妻の両親は犬を飼うなんてとんでもない! と言い出したのです。この後この両親とは色々とあり9年の歳月が流れます。最後には別居して裁判の一歩手前、となる のですがそれは置ておきます。(家を買ったとたん、人が変わってしましました。娘である妻まで敵視していたんです。妻も 驚いて居ましたが。) この同居が始まるとき、ジョンの処遇で妻と喧嘩になりました。私には預ける所もなく、保健所に連れて行くしかないと思 い、そのことを妻に告げました。妻は怒り、私に言いました。「なんて無責任な!ジョンに死ねって言うのね!」と。 やるせない気持ちでいっぱいになりました。妻と詰め寄って喧嘩になると、彼はその間に自分の体を入れ「喧嘩はやめ なよ」と言っているようでした。そんな彼を保健所に、なんて・・・ そんなとき妻の友人で、最近飼い犬が天寿をまっとうしたという女の子がウチに遊びに来ました。喧嘩中の険悪な雰囲 気を察してか、どういうコトかと話しを聞いてくれました。経過を話すと、「じゃあウチで預かるわ」と言ってくれたのです。 私は気が引けました。愛犬を亡くしたばかりなのに、と。ジョンは決して若くはありませんしフィラリアを患っていて、何時 死んでしまうか判らないのです。すぐに悲しい思いをさせてしまうだけかも知れないのです。「それなら自分の手で、保健所 に連れていった方が良いのではないか・・・」と悩みました。数日後、妻の友人のお母さんから電話がありました。「主人が 亡くなって以来支えて来てくれた犬が亡くなってしまった、すぐに死んでしまうかも知れないがもう一度支えが欲しい」と。 こうしてジョンは妻の友人宅でお世話になることになりました。その後私たち夫婦と妻の両親はというと、9年もの間争い が絶えず、結局私たちはアパートを借り、私と妻、娘の3人の生活が始まりました。猫のさちこは妻の両親のところで暮ら しています。下の娘が生まれ、幼稚園に行くようになった頃、ジョンが倒れました。預けてからは一週間に数度、顔を見に 行っては居ましたが、フィラリアの症状が悪化したのです。病院に連れて行き、先生に話を聞くと「もうダメかも知れない」 と。肩を落とし預け先へ連れて行きました。先生からの話を伝えると「大丈夫、ジョンは根性入ってるから!」と言っていた だきました。嬉しかったです。その後、とても良くしていただき、また少しづつ元気になっていきました。 下の娘が小学校に入りました。そして桜が散り、紫陽花が咲き、プールの季節が終わった頃でした。預け先から電話が 入りました。「ジョンが危ないんです・・・多分今日しか会えないと・・・」時間は23時を過ぎています。相手先の迷惑も考え られず、すぐにジョンに会いに行きました。彼は座敷に敷かれた綺麗な毛布の上に横たわっていました。 ピクリとも動きません。(間に合わなかったのかな・・・)「ジョン・・・」小声で呼んで見ました。すると目も開かない弱った体 のはずなのに耳がこちらを向き、立ち上がろうとしました。一生懸命喉を鳴らそうとしています。シッポを振ろうとしていま す。 「いいんだ、もう、いいんだよ。」そう言って私は手を彼の鼻の上に置きました。彼は落ち着いた様子です。 随分長い間離れて暮らしていたのに、声や臭いを覚えていてくれたんだね。 その後、何度かもぞもぞと動こうとし、そのたびに私の手の臭いに気付き、また安心したのか大人しく寝ています。 そのまま何時間か過ぎ、外が明るくなってきた頃、ほんの一瞬大きく息を吸ったかと思った瞬間、 小さな声で「ワウン」と一声聞かせてくれた後、息を引き取りました。ちゃんとお別れの挨拶をしてくれたんだね・・・・・ 34歳になったばかりの私は泣きました。大声で。妻と、妻の友人と、そのお母さんの前で。そして一緒に泣いてくれまし た。ありがとうございました。 夜が明け、仕事は休みました。友人からは動物は死んでしまうと生ゴミとして処理されると聞いていました。悲しみに追い 打ちをかけられるのか、と思い念のため市役所に問い合わせてみると、幸いにも私の住んでいる街には市営の動物専用 の火葬場があり、そこに持ち込んでくださいとのコトでした。私は当時乗っていたデリカの真ん中の席に彼を乗せ、夫婦そ ろって火葬場へ向かいました。 市営の火葬場では人間に接するのと同じように丁寧に対応していただき、ペット用の骨壺までいただいて夫婦二人でお 骨を拾い持ち帰りました。係の方に無理を言って骨壺は二つ貰い、一つは我が家に、もう一つは晩年お世話していただい た、妻の友人宅に、今も写真と一緒に安置されています。火葬場での費用はかかりませんでした。 その日私はまったく無気力で食事も満足に取れず、夕方まで沈んでいました。骨壺を手にもったまま・・・ 子供達は生前のジョンに一度だけしか会ったことがありませんが、飾ってある写真を見ては「パパの大事な犬だったんだ よね!」と言ってくれます。そして友達を連れてきては「ウチにはジョンっていう犬がいたんだよ!」と自慢してくれます。 そうです。例え雑種でも、スタンダード(規格)から外れていても、私にはかけがえのない大事な相棒でした。 −−− ジョンに巡り会わせてくれた、どこに居るか判らないオヤジ、ありがとう。 私が保健所に連れていくと行ったとき、喧嘩してまで反対してくれた妻、ありがとう。 すぐに死んでしまうかも知れないジョンをお世話してくれた妻の友人とそのお母さん、ありがとう。 まるで人間に接するように丁寧に対応してくれた火葬場の市職員さん、ありがとう。 そしてジョン、私は君のおかげで非行にも走らず、色々な問題も乗り越えて自分の家を構え、私の家族と幸せに暮らして いるよ。君のおかげで強い人間になれた気がするよ。君にとっては辛いことの方が多かったね。 ごめんな。 心からお礼を言うよ。−−−ありがとう。 −−− 先日ふとしたことから、また犬を飼うことになりました。 しかし私の犬はジョン、君だけです。 今度の子犬、「なゆた」は「子供達の」相棒です。きっと君のようにイイ相棒になってくれると思います。 ジョン、いつまでも私と、私の家族を見守っていてくださいね。 私は君のコトを一生忘れないよ。 数十年後、天国で会えるといいな・・・ |
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