動物の愛護掲示板過去発言No.6000-200712-63
Re:動物へ愛を注ぐのは宗教なのでしょうか? |
投稿日 2007年10月29日(月)16時47分 投稿者 プロキオン
動物へということになるので、そのような話の流れになってしまったのではないでしょうか? 教育、なかんずく大学入試に置き換えてみたらどうかな。子供が慶応大学の医学部の入試問題を解いていたら、どうしても解けない。これは設問にミスがあるようです。その子供の親御さんから、あそこの大学はけしからんというような話し方をされたとしたら、普通の親御さんはなら、設問の正否など判断しようもなくちんぷんかんぷんで、どうでも良いのではと感じてしまうのではないでしょうか? これが、同じく慶応の医学部の受験を予定している家庭であれば、そう簡単に聞き流すこともできないはずです。 心が向かっている対象とその思い入れのレベルの差なのですよね。生き物の死生観に関わるお話となっているようですから、「宗教」という表現をもちいられたのではないでしょうか。 宗教の話となると、あるコミックに次のような記述があります。 「…以上六識の他に第七識があって、これを末那識(まなしき)という。この末那識が自我に執着するから輪廻が生じるのだが、末那識が真如ではない。第八の識があって阿梨耶識(あらやしき)という…。 これら八識は、すべて妄(もう)…、実在しないものであるが、摂大乗師は、こう言っておられる「八識に二義あり、一に妄 二には真と…」」 この説法を聞いたある沙門は、「八識すべてが妄だというのに なぜ阿梨耶識に真と妄があるのだ…」と疑問をもち、経典の原典をみなくてはならない、西域への旅立ちを決意します。ここまで言うと、その沙門というのが、三蔵法師であることが御理解いただけるかと思います。 同じ説法を聞いても、疑問を持つ者、持たない者がおります。同じように疑問を感じても西域を経てインドにまで行こうとした者は、結果として1人しかいなかったということになりますね。これは国禁を犯してのこととなりますから、むしろ、西域行を決意した三蔵法師の方が突出した考えという事になるかと思います。 私がこの説法を聞いていれば、最初に六識といっておいて、さらに七識を持ち出した上に、さらに八識を加えるのかという時点で、異議ありと言っているかもしれませんね。 「八識すべてが妄だというのに なぜ阿梨耶識に真と妄があるのだ…」という点は、たしかに指摘されてみれば、そのとおりなのですが、おそらくその点に至るまでに説法を聞いていることができなくなってしまっているのではないかと思います。 ひとつの説話や知識であっても、おのおのの人がもっている知識の量やバックグラウンドで感じるところは大いにひらきがあるはずです。むしろ、それが普通のことと言えます。 その方の感性が「宗教」という単語をもって、歯車がかみ合わないと伝えてきたということになるのではないでしょうか。 そして、そのような場合は大抵、事の是非ということは横において置かれていることの方が多いように感じています。
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